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エッセイ:作家 東 直己「食う寝るところに住むところ」

東直己エッセイ「食う寝るところに住むところ」

2006年4月から2007年4月まで執筆された、作家 東 直己さんのエッセイです。

【第25回】消えてなくなりつつある言葉

数回に渡って、「昔は普通にあったのに、今は消滅してしまった物」を取り上げた。

で、今回は、「今現在、消えてなくなりつつある言葉」について、書いておきたい。もうそろそろ、この言葉は、酒場から消えてなくなるような気がして、寂しいのだ。

それは、〈冷や〉という言葉である。

あ、もちろん、「お冷や」ではない。というか、水を「お冷や」、勘定を「お愛想」、醤油を「ムラサキ」、お茶を「アガリ」、生姜を「ガリ」などと、職人の符丁で呼ぶのは田舎者のすることで、マトモな人間の用いる言葉ではないが、そういうダメ言葉の「お冷や」ではなく、「冷や」のことである。

ついでに、ちょっと八つ当たり。職人は、どんな職業であれ、神聖で卓越した存在であって、そういう職人や専門家の用いる言葉を、我々シロウト、つまり、ただの「客」が使うのは、醜態だ、と知るべきである。映画好きを自称する人間の中には、映画を「シャシン」と呼び、映画館を「小屋」と呼び、「シャシンは小屋で」などと口走る者もいるが、物欲しげで下品の極みであります。

話を戻す。「冷や」とは、燗を付けない、つまり、温めていない、常温のままの日本酒のことですね。御存知の通りです。しかし、札幌ではすでにこの言葉は、普通の飲食店では、なかなか通じなくなっている。

あ、この場合の、「普通の飲食店」とは、料亭とか小料理とか、そういう、やや値段の高い、ちょっと頑張れば接待にも使える、というような店ではないです。そういう店では、まだ「冷や」がきちんと通用してます。ま、そういう店で「冷や」を飲む人は少ないけどね。とにかく、「普通の飲食店」とは、この場合、ホール係の人は大概アルバイトであって、店の中にいるスタッフの中で、社員は数人、中には店長のみ、あるいは、店長すらアルバイト、というような店のことです。

そういう店では、「冷や」という言葉は、まず通用しない。店員さんは大概、「は?」と聞き返しますね。この言葉を知らないわけだ。で、とりあえず、もう一度繰り返す。「冷や」をください。だが、通じない。それで、あ、このままじゃダメだな、と思って、「冷や酒をお願いします」と頼む。

これで「冷や」が飲める、と安心すると、甘い。出て来るのは、冷蔵庫で冷やしてあった純米大吟醸の冷酒などである場合が多い。

それはそれでもいいんだ。おいしいから。でも、適当な、どうでもいい「冷や」を適当に飲みたい、という気分の時もあるわけだ。

今自分が、何を飲みたいか、何を食べるのか、そんなことをあれこれ考えながら、ずらりと酒の名前が列記されたリストを眺めて、あれがいいかな、これがいいかな、などと各地の「地酒」を選ぶのは楽しい。それは楽しいけれども、そうではなくて、「板ワサね。あと、冷やを一杯」と適当に頼んで、テレビを見上げ、どうでもいい国会中継などを暇潰しに眺めながら飲む昼下がりの酒、というのもあって、これはこれで楽しいものだ。

こういう時は、なぜかコップ酒。地酒とか冷酒は、猪口でちびちび飲むことになる。それもいいけど、「塩辛ね。あと、冷やで一杯」の時には、コップ酒をぐいぐいやりたい。

ところが、アルバイトの可愛らしい女の子は、「え?」と困った顔で聞き返す。中には、「日本酒は、燗か、冷酒ですけど」などという店がある。

「冷酒でいいんですね」
「いや、つまり、この店で普通に出すお酒を、燗を付けないで、つまり温めないで、常温で持って来てくれればいいんだよ」

と丁寧に説明するのだが、通じない。

「そういうのは、ありません」

と断言されることもあり、そうなったら、もうオシマイだ。

そのうちに、「冷や」という言葉は、あっさりと消滅するのでありましょう。残念です。

(2007.4.1 最終回)

東 直己プロフィール:
1956年4月12日札幌生まれ。北海道大学文学部西洋哲学科を中退。
ススキノでその日暮らしの一方、家庭教師、土木作業員、ポスター貼り、カラオケ外勤、タウン雑誌編集長、テレビ・コメンテイターなど15以上の職を転々とし、1992年、『探偵はバーにいる』(早川書房)で作家デビュー。
2001年『残光』にて、第五十四回 日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門受賞。

主な作品:
「探偵はバーにいる」/「バーにかかってきた電話」/「沈黙の橋」/「札幌刑務所4泊5日体験記」/「自衛隊おとなの幼稚園」/「すすきのバトルロイヤル」/「残光」/「探偵は吹雪の果てに」/「スタンレーの犬」 など多数

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